越後は北越戊辰戦争の戦場となっており、新政府の権限が、ただちに越後全域に及んだわけではないいので、それぞれの領地の所在地や、各旗本の戦争に際しての動静などによって、一様でなかったように思われる。池之端溝口氏の動静は第九代当主直壱は、明治元年八月、戊辰戦争のさいに、本藩の新発田藩に付属して三小隊を出兵して一〇月に帰陣、一一月新政府から本領を安堵され、下大夫に任ぜられたという。八月ということになれば、新発田藩自体が政府軍側に降伏した後の事だと思われる。しかも池之端領は三条以北に散在しているから、どのみち、現実に越後府の支配をうけるのは、政府軍の勝利が確定した八月以降ということになる。明治元年、政府は府県に命令して、旧旗本の領地を管理させることにした。名目的には知行所は残っていても、実質的には、府県支配下に移行していたといえるであろう。その後、池之端の陣屋は明治二年版籍奉還のさい解体した。その後池之端村を本籍とした士族は六戸であった。