新政府が行った政策として、年貢の半減がある。年貢の半減は草莽隊のひとつ、赤報隊の相楽総三が慶応四年、年貢を減免すれば民衆は朝廷のありがたさに感銘して、東征の一助になるであるう、と建白したのにはじまる。この建白は承認され、相楽の属す部隊に、旧幕府領地の今年度分の年貢の半分を免除するという命令が下された。しかし、年貢収入の減少を心配する立場から、この命令はまもなく取り消された。これとは別に越後では新潟裁判所総督四条隆平によって、越後国内の賊徒の領内で、あらたに官軍にしたがう村々には、今年の年貢の半分を下さる。よって小前末々まで、天朝の有り難さをわきまえ、心得違いのないようにという布告が発せられていた。当時、北越は政府軍と同盟軍が激戦を繰り返しており、この年貢半減令は、戦況を有利に展開しようとする意図を持っていたというのは言うまでもない。