明治三年、県庁は新潟へ移され水原県は新潟県と新ためられた。名称を変えたばかりの新潟県は民部省にあてて、新発田領の沼垂とその周辺の地域を新潟県管轄とするよう、上申を行った。新潟と接する沼垂が藩領であるため外国関係事件の処理に対応できないこと。阿賀野川河口の松ケ崎での密貿易規制が困難だというのがその理由であった。この政策の推進者である新潟県大参事名和緩は、新潟は開港として交易を盛んにし、富みとなるべき土地なのに周囲が藩領に囲まれ妨げとなっている。よって周辺十里四方を新潟県管轄としたいという進達を行っている。支配、管轄地の変更を村替とよぶ。その後民部省伺においては、沼垂村のことで新潟県から申し出があり、かつ新発田藩、三日市藩からも、飛地をまとめたいと願い出ている。よって、沼垂村周辺はもちろんその他の諸藩の支配地も、同様にひとまとめにしたいと、大規模な村変えへと発展していった。こうした民部省の考えに対し、兵部省が新潟が北越第一の要港であることを理由に、刑部省が北越諸藩に奥羽同盟の罪があることを理由に、それぞれ賛成した。