村松藩では八月初旬、領民代表が東京についたが、藩のほうで努力しているので、とりあえず直訴はやめ、藩邸近くに宿をとっていた。菊間藩代表も上京はしたものの、他藩代表の上京を待っていた。八月二二日、これら各藩代表が集まって相談することにしたが、村上藩代表はやりかたが違うとして参加しなかった。集まった新発田、村松、菊間藩も共同行動は成立しなかった。九月二日、新発田藩代表は、三班にわかれ、民部省、弾正台、衆議院へ嘆願した。嘆願書が受理されたのは、弾正台だけだった。五日にはさらに民部省の三条左大臣、岩倉大納言、徳大寺大納言の門前に張訴し、弾正台へ追願した。九月四日には、政府からの督促で新発田藩は引渡しの方針を決定しており、国元でも県からの厳しいかけあいの前に、一二日土地引渡しを決定してしまっていた。ここに至って、上京中の代表もいたしかたなしと、二四日帰国することになった。二ヶ月にわたる新発田藩の反対運動はこうして終わった。他藩領も同様であった。村替の結果すべての村々は県管轄に変更になった。ここにすべての地域が県の直接統治をうけることになったわけである。