分水工事運動

慶応元年、中之口支流口を狭める工事計画が打ち出された。新発田藩、桑名藩の二藩はこの工事に反対し、これまで要望してきた分水事業を行なう事を主張した。しかし、中之口川支流口国役普請を推進する村上、長岡の二藩は、文久二年から慶応元年までの四か年間、中之口川左岸に四回の大破堤があり、その害のもはなはだしいのが、この両藩の領地であったことから、分水案のように、長年月、巨万の経費を要する工事は成否も期しがたいとして、この工事を強行した。工事は慶応二年に起工し多額の経費を投じて四月に竣工した。この結果、中之口川支流口の八〇間を三〇間に狭めることはできたが、その結果は不良で中之口川の水力はますます急激になり、川底は深さを増し、かえって水害が従来より多発するのではないかと予想される状況になった。このように国役普請の実効がなかったことは、分水事業の必要を促す契機となっていった。

分水工事運動