明治元年、信濃川大洪水による破堤が相次ぎ、沃野百里汪洋たる湖海に変じ、と記されているそれに加えるに、戊辰戦争による兵馬蹂躙の地となり其惨絶荒涼の状は書き尽くすことのできないほどである、とも記録されている。此戦雲暗澹の中、古来未決の信濃川分水事業を創起するに至りたるは実に明治維新の機運を開くと共に共同心を発揮したる結果と謂はざるべからずと述べている。この分水工事運動の創起者の盟主は、新発田藩であり、大参事窪田平兵衛、小参事冨樫万吉両名の尽力があった。蒲原各地の有志者としては、田沢与一郎、柏推次郎、大矢益彦、藤宮三九郎、山際郡司、山口謹一郎、鷲尾政直らであった。柏と鷲尾の両名は、三条町に行き、高橋健三、松尾与十郎をはじめ数名と会い、分水事業に協力して取組む事を確認した。大河津線の調査をはじめ、実施調査を終わり、越後府知事壬生基修は、六藩の建議及び民願衷情の切なるに到り信濃川分水事業は越後の人々の安全にかかる重大事項であることを認め、官費で起工することを一般に布達した。なお、長岡、村上の二藩はそのころ処分未定のため不参加であった。