分水工事は明治三年五月一四日、須走海浜の丘の上で起工式がおこなわれた。しかし工事を統括していた土木権少佑が間もなく死亡し、監督が行き届かなくなった工事は不規律になった。また、請負者の失点が重なり途中で工事引き上げの処分が行なわれ、官の損失が多く出た。当時は器機技術はまったくなく、すべて負い籠や持つ籠を使用し、数十尋の下より絶壁の坂路を迂回して登り、掘った土石を運搬するしか方法はなく、したがって遠距離の所へ土石を運ぶことは難しく、いったん運んだ土石を途中に積んで山としていた。雨が降ると、その山は崩れ再び運びなおすこは少なくなかった。また、山中には権現林山行者松山等のけわしい嶺があり、また俗に妖怪丁場と呼ばれる難工事の場所もあった。このような状況から工事の費用は多額になった。また、当時の越後には土方請負職が存在しなかったことから、人夫はみな農民を雇い入れ、水害関係町村から正人夫を徴収したが、予期したとおり集まらなかった。止むを得ず、東京、上野、下総、信濃、越中、会津の各方面から、二千人余の職夫を募集した。