何回もの難関を排し明治六年一一月には、分水口の石固めや平地の左右の堤防を築き、山中の八五〇間は水路が通ったが、両岸の堤の勾配は、急峻でくずれるおそれがあり信濃川の水を注ぎ入れることはできなかった。そこで支流島崎川のみは須走海浜へ放流した後、土木寮官員は冬の降雪の前にひとまず工事場を引揚げ東京へ帰った。翌七年は、土木寮員は再び出張して、山中の工事を継続、信濃川の水を注ぎ入れることが目的であったとされる。しかし、明治七年になってからは工事は中止のままになり七月の達しでは政府の沙汰があるまで待てとのことであった。一一月三〇日、第二大区小二区、分水工事は着手以来既に数年を経て、その事業は八九分をなしているが、昨年の冬以来中止のままであり杞憂に耐えない。興廃のいずれかに確定したのか、伺いたいと県令楠本正隆に対し伺いを提出した。この返事は、書面の趣きは其筋へ申し立て中につき追って何分の差図があろうとのことであった。